「おもてなしの神髄」 CS経営(その42)

 
  
 

◆なぜ、あの企業の「顧客満足」はすごいのか

9.伝統を守る、でも飽きさせない、歌舞伎界

(1) 「常識にとらわれない」という伝統

 歌舞伎と聞くと、「敷居が高い」「自分とはかけ離れた異次元の世界」と感じる人も多いでしょう。しかし、元歌舞伎座支配人である金田栄一氏は、歌舞伎とは「役者を中心としたエンターテインメントであり、多くの工夫が凝らされている先進的な究極の娯楽」と言うのです。
 
 「役者を中心とした」というのはどういう意味でしょうか。欧米の演劇が主に作者や演出家を主体とする「作品本位」であるのに対し、歌舞伎は世界でも珍しく、類を見ない「役者本位」の芸能という特色を備えているのです。このことは、日本人独特の観劇スタイルです。人気俳優や主人公が登場しただけで拍手やかけ声が湧き起こる現象からも見て取れます。歌舞伎の原点は、慶長8年(1603年)、今から400年以上も前に出雲阿国と称する女性が、京都の四条河原で始めた奇抜で風変わりな「かぶき踊り」とされています。
 
 慶長8年といえば、徳川家康が征夷大将軍となった年です。武家諸法度の制定、禁中並公家諸法度などの行動の規制、厳守すべき諸規定が設けられ、法治体制を敷いた時期でもあり、庶民も何かと窮屈な生活を強いられ、精神的にもストレスを感じた時代であったのではないでしょうか。もともとの語源は「傾く」から来ていて、「かぶ」は頭を意味し、頭を傾ける、すなわち「常識外れ」「異様な姿や様子」「華美な振る舞い」を意味していました。
 
 庶民から見た雲の上の人たちの悪行、振る舞いや政治の問題など、直接・表面的に立ち向かうのではなく、腹は立つが直截的に文句が言えない人をけなすために仮の名称を付したり、庶民がいじめられたり、虐げられたり、殺されたりした事件の設定を変えて鄙楡し僻憤を晴らすなどの、一種の世相風刺が歌舞伎の題材とされた時期もありました。
 
 歌舞伎には歴史上の有名な人物が登場しますが、史実を忠実に表現する演目はないのです。それは、実在の武家社会を芝居にすることが禁じられていたからです。そのため、源義経や曽我兄弟といった平安・鎌倉時代の英雄の名を借り、その時代を背景とした演劇を生み出すことになったというのです。しかし、実際は、お上を鄭楡する「おとぎばなし」、風刺を含めた「作り話」であったのです。ともあれ女性の人気に支えられ発展した歌舞伎だが、風俗上の問題を懸念し、女かぶきは禁止され、芝居小屋への出演は成人男性に限られました。これが世界で類を見ない優れた女形芸が発展した理由でもあるのです。
 

(2) 究極の言葉遊び

 さて、歌舞伎の題名は外題といわれ、五文字、七文字で表現されています。「奇数は陽」「偶数は陰」の構成ですが、日本人は1・3・5・7を好む傾向にあり、たとえば、七五三、一月一日は元旦、三月三日は桃の節句、五月五日は端午の節句、七月七日は七夕、九月九日は重陽の節句といった具合であり、三三七拍子はお祝いの手打ちや応援団の手拍子となっています。
 
 反面、二は別れる、四は死、六はろくでなしといった具合で敬遠されてきました。歌舞伎の外題は、日本人の好み、縁起の良さを意識し、必ず奇数でなければならないのです。そのうえ、実際の人物を批判すると罰せられるので、全く違う人の名前を作り、庶民には誰を批判しているのかわかってもらえるよう、作者は趣向を凝らしていたというのです。だからこそ、洒落っ気のある題名が必要だったのです。
 
 たとえば、「仮名手本忠臣蔵」は正義を貫く、...
仇討ちなどで有名な「赤穂義士四十七士」の討ち入りを題材としています。「忠臣」=「義士」、「蔵」=「大石内蔵助」です。また、「神明恵和合取組」は、町火消しと相撲取りの喧嘩を題材とした「め組の喧嘩」を意味しています。「め組」は芝大神宮(神明様)の氏子で「恵」を「め組」に掛け、相撲取りとの喧嘩と仲直りで「取組」「和合」と結ぶのです。
 
 「伽羅先代萩」は仙台の伊達藩で生じたお家騒動を題材として、伊達のお殿様が伽羅という香木の下駄を愛用していたという逸話から、伽羅を「めいぼく」と読ませ、「先代」「萩」は共に仙台を意味してます。
 
 次回は、(3)アニメが先か、歌舞伎が先か意表をつく演出の数々から解説を続けます。
 
 【出典】 武田哲男 著 なぜ、あの企業の「顧客満足」は、すごいのか PHP研究所発行
      筆者のご承諾により、抜粋を連載
 

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