~ 仏典の漢訳と全国測量 現場数学(その15)

 

1.現場の規模 ~ 中国の一大国家事業

 「三蔵法師が孫悟空たちを供に従え、天竺に仏典を求めた旅をした…」と、その通りに信じている人は少ないでしょう。中国がインドから仏典を運んだのは本当に一大国家事業で、実に多数の人々が関わっていました。紀元3世紀頃から、少なくとも3回にわたり大規模な仏典の収集と移動がなされ、中国で鳩摩羅什(くまらじゅう)など膨大な数の(今でいう)研究者が巨大な組織として漢訳を担当していました。これらは古訳、旧訳、新訳と呼ばれています。

 焚書(ふんしょ)などにより、多くの仏典が焼失しました。さすがに、石に刻まれたもの全ては消せなかったのですが、インドから伝わった書籍はほとんど残っていません。さらに、インド国内では湿度が高いなどの理由で保存が難しく、やはり仏典の原本は残っていません。

 ということで昔、お釈迦(しゃか)様が何を言ったのか?何回も口伝され、それがインドでサンスクリット語として記述され、さらに漢訳されたものが現存する一番古い仏典ということになります。お釈迦様の言葉自体はそこからの類推となります。私たちは、世界中から収集した法華経に関する43通りの写本をデータベース化し、計算機処理を駆使して比較対応することで、仏典の変遷(へんせん)を科学的に調べています。20年でやっと5分の1ほどの解読が終わるという膨大な資料です。その結果、従来は仮説であった、観音様から観自在菩薩(ぼさつ)への仏様の名前の変化が、ヒンズー教との混淆(こんこう)であることなどを突き止めました。漢訳はインドで、困った人の言葉(音)を聞いてくれる(観ると聞くは意味が通じる)仏様が、自在神の混淆でモダンな神様に変わったことを熟知した人によってなされたのです。

 

2.地球一周分 … 伊能忠敬の偉業とは

 伊能忠敬の話は誰でも知っています。しかし、その偉業の規模となるとほとんどの人は知りません。これも驚くべきことだと思います。まさか、三蔵法師のように数人で量程車(距離を測る装置)を引いて回っただけで、伊能図と呼ばれるあれほどの精度を誇る海岸線図は作れません。坂道や角度を測って補正した、などといっても、凸凹道を歩いて精度を出すことは困難です。記録によると、300人以上もの作業員を連れた江戸幕府の一大国家事業だったことが分かります。

 彼の話は小学校で習うこともあり、本当に何をしたのかを正確に教わらないままになっています。実は、彼は当時、西洋からもたらされたばかりの最高の測量学と天文学を学び、それらを組み合わせて、各地点の緯度と軽度を天体測量で決定したのです。その位置を基準に量程車などを使って歩き回り、実測によって距離を測り、詳細な地図を確定していったのです。17年かけ、地球一周に当たる4万キロメートルも歩いたのです。歩数でいうと何と5千万歩という気の遠くなる数になります。伊能図は3万分の1、21万6000分の1、43万200分の1の3サイズになっています。各214枚、8枚、3枚で当時の町の名前も正確に記述されています。これにも多くの人足が使われました。メモを取る人、それを集める人、チェックする人と極めて組織的に作業がなされました。

 現在のカーナビに入っている地図を作る作業は、データ収集は伊能図と変わりませんが、集積と処理には計算機が最大限に活用されています。それとほとんど変わらないことを100年以上も前に全て手作業でやっていたことになります。伊能図は幕府の機密になっていましたが、シーボルトが持ち出し、先に諸外国に知れ渡りました。...

黒船のペリーも持っていたといわれています。鎖国で国内の情報統制をしても、何にもならなかったのです。昭和になっても使われていた伊能図は本当に驚くべき現場数学の結晶なのです。

 

3.後世に残る仕事

 「残る仕事をしたい」とは、現場数学の技術者に限らず、誰でも思っていることです。しかし、上述の様な仕事はめったにできません。伊能忠敬も、最初は私財を投げ打ち、半分隠居の趣味の様な仕事として始めたと思われますが、そのすごさに国が資金を投入したのでしょう。ただ、最初から奥州街道と蝦夷(えぞ)地が対象とされたことは不思議です。奥の細道を旅した松尾芭蕉が幕府の間者ではなかったかという説もあります。当時、東北や北海道は遥(はる)かに遠い地であったため、純粋科学的にも興味を持っていたのではないでしょうか?

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