先日、東京・武蔵野の和菓子店「紀の国屋」さんが廃業しました。私は京都在住ですが、ここの和菓子が好きで、東京に行く度に粟大福(あわだいふく)と相国最中を買って帰っていました。大好きだった和菓子がもう食べられないと思うのは悲しいことです。この「紀の国屋」さんの廃業ですが、背景に何があったのか?一顧客として考えました。廃業のお知らせには理由らしいものが何も書いていなかったのですが、ピンと来るものがありました。それは値上げです。
この「紀の国屋」さん、安い上に値上げをしていなかったのです。上記の粟大福は賞味期限が1日の無添加です。粟をついて餅を作り、手作業で餡を包んでいただろうと想像します。餡の風味も豊かでした。要するに原価がかかっていた。それなのに150円くらいだったと記憶しています(京都で同じような大福を買うと250円くらいします)。
そして、お値段が変わることがなかった。覚束ない記憶ではありますが、私が通った十数年間は値上げなしだったのです。世間が値上げラッシュだった21年22年を含めて「紀の国屋」さんは値上げしませんでした(その間、京都の和菓子店は値上げをしています)。
私を含めてお客さんが抱いていたイメージは、「良心的」とか「美味しいのに安い」というものだったかも知れません。しかし、同時に「大丈夫か?」と思った顧客もいたはず。他店は値上げしているし、いい材料を使っているのは味を知っていれば分かるからです。
高い原材料費にも関わらず値上げをしないことで、収益を圧迫したのでしょう。なぜ値上げしなかったのか?ファンとして悔やまれます。良心的な経営が仇となった、そんな見方もできそうです。ところで、今日の記事、本題に入りましょう。「紀の国屋」さんの経営は、日本の大企業にも共通するものがあると私は思います。「良心的」であることで自分が苦しむ、という構造です。
1. 顧客の奴隷になっていないか?
「良心的」であることで自分(自社)が苦しい、というのは商売をしていれば必ずあることです。和菓子屋さんで言えば、常に変動する仕入れ価格に対して、消費者向けには固定価格を提示します。さらに競争もあります。競合より安く売る圧力です。大企業でも同様です。原材料が上がっても価格を容易には上げられない。...
顧客要望対応は減益を招くことは以前の記事でも書いたのですが、今日書きたいのはこの構造の話です。図に示すように顧客が上、技術者は下という構造になっています。事業部(営業)は売上を上げるのが役割。ひどい場合値下げしてでも受注する。R&Dマネージャーは事業部の要求に答えるのが役割。無理な受注でも意向を聞かざるを得ない。技術者はR&Dマネージャーの指示に従う。こうして会社全体が疲弊していく、という訳です。このような構造を「顧客の奴隷」と言います。構造の下にいる人間にNOと言う権利がないからです。そして当然、奴隷の収入は低いのです。顧客にいい顔をして自分(自社)は苦しい。冒頭の紀の国屋さんと同じような構造です。
2. 顧客の奴隷構造は岩盤
この記事では研究開発や新規事業を扱っていますが、研究開発や新規事業をするのに必要なのは余裕。時間的、金銭的、精神的な余裕です。冒頭の紀の国屋さんは値上げしなかったために余裕がなかったでしょうが、同じような「顧客の奴隷」構造が続いている以上、余裕などできるはずがありません。このような構造であることが分かりきっているのに、なかなか変わらない。変えようとしないのは日本全体の課題です。そこで、このコラムではその原因をハッキリと指摘しておきたいと思います。
構造が変わらない理由はトップ(経営者)にあります。この構造は岩盤(なかなか変わらない硬いもの)なのです。岩盤はダイナマイトや重機を使わないと動かせないのと同じで、この「顧客の奴隷」構造は相当な腕力がないとボトムアップでは変わらない、と思うべきです。
経営トップの方にはよく考えてほしいのですが、R&Dマネージャーの立場で事業部に対して受注NOとは言えないのです。NOと言えない人に新規事業テーマを創出せよ、と言っても無理な話です。まずはトップが値上げするとか、低価格の受注をやめさせるなどして奴隷構造をやめさせるべきです。トップが値上げしようとすれば事業部からは抵抗があるでしょう。しかし、トップであれば抵抗は排除できます。R&Dのマネージャーが矢面に立ったところで抵抗を排除できません。
そう、「顧客の奴隷」構造は、トップダウンでなければ変わらないのです。分かりきったことなのに、これを放置している組織が日本には多すぎるのです。自分(自社)が苦しい思いをして顧客にいい顔はしている、という現状構造を打破しようと思わないのでしょうか?
もっと書くと「顧客にいい顔をしたいために自分(自社)で苦しい思いをしている」と積極的な意思があればまだ良いのですが、何も考えていないがために放置しているというのが実情の会社も少なくないように思います。そういう経営者に限って「自分の任期の期間中に問題が起こらなければいい」と思っているかも知れませんが、そういう発想で何もしないのであれば即座に退任した方が下の方のためです。
3. 顧客の奴隷構造にピリオドを打つには
「長年培った構造がそんなに簡単に変わるはずがない、変える方法を知りたい」と思われますか?
いいえ、そんな方法はありません。しかし、変えるのは簡単です。経営トップが決める、これだけです。決めれば良い。ただそれだけ。それだけで顧客の奴隷の構造にピリオドを打ち、余裕が生まれ、研究開発で新しいテーマを創出できます。なにも難しい判断をする必要はありません。新規事業を創出するために値上げする、これだけです。
「そんなに簡単な判断はできない」とお思いでしょうか?「乾いた雑巾を絞るような努力をした上でないと値上げできない」と思われますか?
もし、経営者として本気でそのようなことを思われているようであれば、社員がどんどん離れていくことを意識した方が良いと思います。「丁稚奉公」とか「24時間戦えますか?」などの表現で社員を奴隷にする時代ではありません。今は頭を使って働く時間を半分にして従来の倍稼ぐ時代です。
そういう考え方をしていれば、早晩あなたの会社は低収益になるでしょう。優秀な社員から離れていき、日常業務を回すことで精一杯になります。そして、どんどん新しいことができなくなります。
繰り返しになりますが、この循環を断ち切るのは経営トップが決めるだけです。それだけで値上げにより余裕が生まれ、新規事業にも成功します。この記事を読んだ方は決めることから逃げず、向き合ってほしいと思います。
最後に余談ですが、本文中の「顧客の奴隷」という言葉は筆者の造語ではなく、あるCTOのお言葉をお借りしました。とても言い得ています。
次回に続きます。
【出典】株式会社 如水 HPより、筆者のご承諾により編集して掲載