技術企業の高収益化:経営者の信頼残高が技術戦略を左右する

◆ 技術戦略と恐怖政治の奇妙な関係とは

 「代わってもらって良いんだよ」と温かく社員に声を掛けたのは、A社長でした。

 「温かく」と書くといい雰囲気を感じるかも知れませんが、当時の状況としてはその側面だけではありませんでした。「代わっても良い」という言葉には、辞めても良いという含みもありました。そのような意味合いも含め、温かくそのように言ったのです。

 少し説明を加えます。A社では技術戦略の策定に関することを行っていました。会議室にはA社長はじめ、複数人のA社社員とコンサルタントの私がいました。

 技術戦略の策定では定例的な会議が開かれますので、その度に進捗報告をするようにコンサルタントの私が「宿題」を出します。情報収集としてこんなことをして欲しい、するべきだという考え方の指導を含む内容です。

 技術戦略の策定において必要なことの一つに情報収集の宿題があります。情報収集には様々なものがありますが、この情報収集をするのは、慣れない人には骨の折れる作業になることがあります。

 宿題のクオリティは人によって異なります。優秀な人は要領が分かりますので、宿題が出された場合に要領よく対応します。一方できない人はどうもピンとこない結果を出してくることも多いものです。

 コンサルタントは宿題を出して受け取る側です。結果が悪くてもクライアントの社員が一生懸命努力をした結果なら受け入れられますが、一生懸命努力をしてないことが分かることもあります。厳しい指導が必要なのでは?と感じますが、コンサルタントは第三者です。なにか都合があるのかと忖度(そんたく)し、厳しい指導を遠慮してしまうこともあるものです。

 A社では、まさにこのような忖度が必要でした。宿題の出来上がりがあまり良くなかったのです。社員との人間関係を損なってまで厳しい事を言うのか、それとも忖度して社員の言い訳を尊重するのか。私はこのような判断に迫られていました。

 

1、宿題はどうダメだったのか

 宿題がどのようにダメだったかというと、次のような内容でした。技術マーケティングに関する記事、技術プラットフォームに関する記事でも書きましたが、技術は予(あらかじ)め仕込んでおかなければなりません。

 ココでは「予め」というのがポイントです。こんな場面を想像してほしいのです。

 あなたがスーツを仕立てようとしてスーツ屋さんに行き、採寸してもらったとしましょう。そしてどの生地にしようかな、と思って相談した所、店員が「生地を今から仕入れに行きます」と言ったとします。生地を今から仕入れに行くと何ヶ月か余計にかかると知れば、あなたは頼まないのではないでしょうか?

 別の場面です。ファミリーレストランに入ってメニューがなかったとします。「お好みでなんでもできます」と店員が言うのでハンバーグを頼むと、その店員に「今からミンチにするので時間がかかります」と言われたとしたら、あなたは「もういい」と言って店を出るのではないでしょうか?

 いずれも、超高級店で時間を楽しむ接客と共に提供されているのであれば成立するかもしれません。しかし、普通のスーツ屋さん、ファミレスを想定すれば、こんなお店はイマドキありえないですよね?

 普通、オーダースーツでは生地を予め仕入れてサンプルを見ることができます。ファミレスでもメニューがあって、対応した材料を持っています。技術も同じです。予めなければダメなのです。予め技術を備えるためには、お客様が欲しがりそうなことを見越して開発していなければダメです。

 

 お客様が欲しがりそうなことを予想するプロセスが技術戦略のキモです。そのために必要な情報があります。A社社員には必要な情報を集めるように宿題を出していました。付け加えると、宿題はそれほど難しいものではありませんでした。ちょっと頑張ればできる程度の内容です。しかしそのクオリティが低かったのです。誰でもちょっと頑張ればできる程度の内容を「サボっていた」と評価できました。

 

2、信頼残高と発言の背景

 そんな時A社長から冒頭の言葉が社員に対して掛けられました。社員の出した成果物があまり褒められたものではないことは、私から見ても明らかでしたが、A社長にはもっとだったのかもしれません。

 確かに、前回の会議から一定期間が経っていました。その時間に実施することは十分できたはずです。それもあってか、A社長の言葉には、社員への叱咤(しった)・叱責的な要素があったのは間違いありません。A社長の言葉は「こんな程度で済ませるんなら、あなたを交代させるよ」という意思が感じられる言葉だったと思います。

 そう言われれば、社員としては脅迫感を感じるのではないでしょうか。社長からの言葉です。ただでさえ重たいものです。「代わってもらって良いんだよ」と言われれば戦慄すると思います。しかしA社長の言葉はどこか温かさを感じるものでした。本気で言っている、怖くもある、しかし、どこか温かい。

 よく考えると、このような温かさの背景には、A社長の人格と日常行動があったように思います。というのも、このA社長、人の話をよく聞く方なのです。上下関係や表も裏もなく、どんな人の話でも遮(さえぎ)ることなく聞いていました。

 そのためA社の会議の雰囲気は社員にとって意見が言いやすいものでした。コンサルタントの私はもちろん会議での発言が多いのですが、A社の社員は他のクライアントの社員よりも多く発言していました。

 発言の内容は思ったことを率直に言うことが少なくありませんでした。例えばA社社員はA社長と反対の意見でも平気で言っていましたが、A社長は意に介することもない様子で聞いていることが多かったです。当然そうした状況でも怒ることはありませんでした。

 そのこともあってか、A社長には人としての信頼がありました。古い言葉ですが、この記事では信頼残高と言いましょう。A社社員には、A社長に対する高い信頼残高があったと思います。

 

3、信頼残高の正体

 誰でも周囲には一人くらい「この人には何を言っても大丈夫(受け止めてくれる)という人」や「自分のことをよく知ってくれている人」がいるのではないかと思います。何かにぶち当たった時に、このような人に話を聞いてもらうと、心が慰められるという経験は読者の皆さんにもあるのではないでしょうか。

 そしてそのように信頼できる相手の助言には耳を傾けるのが普通です。別の人に言われたら決して受け入れられないような耳の痛いことであっても、その人に言われれば受け入れることができる。そんな人間関係はあると思います。

 A社長の発言に戻れば「代わってもらっても良いんだよ」という言葉には「これ以上頑張らないならば異動させる」という脅し的な意味もあったと...

感じました。しかし発言の主体は高い信頼残高を備えたA社長だったという訳です。

 その残高の高さからどこかに温かみが感じられるA社長の発言を受けて、その場では社員はグーの音も出ずにしょんぼりとしていました。しかし翌月から発奮し、その後、A社での技術戦略策定は首尾よく進みました。

 これは私の想像ですが、A社長に信頼残高がなかったら「代わってもらっても良いんだよ」の発言は単に恐怖を生んだでしょう。言われた社員は辞めていたかもしれませんし、A社長が代えたかもしれません。代えられた社員は落ち込み、会社に残ったとしても良い成果を上げなかったのではないかと思います。

 

 A社のように技術戦略を策定するタイミングでは、経営者は社員に変化を迫らなければなりません。そして変化を実行たらしめんためには、社員がやる気を出すことが必要なことは言うまでもありません。

 そして経営者が持たなければならない視点があります。それは社員が実務を担うことです。そうである以上、経営者に重要なのは技術戦略のハウツーやテクニックではないことは明白です。経営者の仕事はあくまでも意思決定と資源配分の実効性にあるのです。

 

 社員のやる気を落とすことなく変化に対応させるためには、恐怖政治を敷くことではなく、日頃からの高い信頼残高が必要であることは、この記事で十分伝わったのではないかと思います。

 さて、あなたは、信頼残高を培う努力をしていますか。

◆関連解説『人的資源マネジメントとは』

 

 【出典】株式会社 如水 HPより、筆者のご承諾により編集して掲載

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