♦ 現場数学者に期待される判断能力 ~ 計算機パワーを最大限に活用
1.専門家の経験に基づく判断
英国のケンブリッジ大学には、キャベンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)という有名な施設があります。そこでは、英国政府に予算を要求する時、ノーベル賞受賞者リストを示すだけ、という噂(うわさ)がある程、原子核からバイオ系に至るまで継続的に優れた研究成果を上げています。同研究所の特徴の一つとして、理論研究者が多いことが挙げられます。さらに、実にバラエティに富んだ研究を実施しています。
例えば、パン屋さんとの共同研究というのがありました。「おいしさとは何か」とか「イースト菌の最適化」などを大学と共同で研究したりするのです。このような共同研究は日本ではあまり見掛けません。パン屋さんは経験に基づき焼き時間などのタイミングを決めています。もちろん、翌日の来客数も同様に予測しながら焼く個数を決めています。ここで数学が活躍するのです。これこそ、現場数学です!
また、皆さんも具合が悪くなり、病院に行くと熱を測ったり、舌の状態や聴診器などを使い、お医者さんに病気の状況を判断してもらうと思います。すると、あっという間に注射されたり、薬の量が指定されますが、本当にお医者さんの判断は正しいのでしょうか?安心して下さい。お医者さんの経験はほとんど正しいのです。とんでもなく悪い症状の患者は救急車で運ばれ、症状のない人は病院には来ないのです。
アルツハイマー症候群の患者さんは、脳画像によって判断されますが、病院に行かない人は分かりません。最近、物忘れが多くなったという人が病院に行ったら、同症候群と判断されるかも知れません。私は、脳の活性化で有名な東北大加齢医学研究所長の川島隆太先生と共同研究を行っていました。その時、同症候群でない人、つまり健常者の脳を統計的に調べたのです。我々以前に使われていた「健常者の脳」とは、偉い先生が経験に基づき「これは立派な普通の人の脳である」と判断した誰かの脳を「標準脳」と定義したものでした。つまり、それとの「差」で病気であるか否かが判断されていました。我々は男女、年齢別に多数の脳画像を収集し、統計処理を行ったのですが結果は驚くべきものでした。年齢につれて、誰でも基本的に脳は徐々に空いていっているのです。
2.統計処理やニューラルネットワークによる予測
お正月とか連休にコンビニエンスストアに行くと、商品が日頃と比べとても少なくなっています。これは各コンビニでは、その日のおよその来客数が分かっていて、それに合わせて用意しているのです!これはPOS(point of sale)システムのおかげです。情報を事前に解析し、無駄な商品を配送しないようにしているのです。お花見の頃、お弁当屋さんは天気予報を調べて、翌日のお弁当数を設定します。天気予報も今では国際化し、英国企業の予報を購入するのが一番だとかいう話もあります。それ程、シビアな世界なのです。
Ian Ayresの「Super Crunchers」という本(日本語版『その数学が戦略を決める』山形浩生訳、文藝春秋)をご覧いただけば、ワインの価格予想に始まり、銀行から医療、さらには教育やハリウッド映画に至るまで、膨大なデータを使って統計処理やニューラルネットワークによる予測の結果、従来の考えを全く変えることが可能という、実に多くの実例が述べられています。では、専門家の経験に基づく見立てと、統計処理結果のどちらに本当の優位性があるのでしょうか?個別には、専門家の予想が当たっているように思われますし、ある意味素人はそれに従うしか選択肢はないのですが…。
ここで情報格差の問題が発生します。インターネット上で公開されている情報を検索すれば全ての情報が入手できるのでしょうか?決して、そんなことはありません。意味ある情報を無料で提供するほど世の中は甘くありません。例えば2008年、某放送局職員が放送前に株価情報を入手できる立場を利用してインサイダー取引を行い、個人利益を得ていたことが発覚しました。このように、ある特定の範囲の人たちだけが情報を入手できるため、経済的に有利になるような状況が発生しています。情報を平等に入手できなければ、同じレベルの判断は不可能です。我が国では教育の機会均等により、格差社会が発生しないように努力してきましたが、それさえ危うい状況です。情報公開とは、このように本質的な問題なのです。
現場数学の世界でも、膨大なデータを収集し解析できるかどうかに、正しい判断基準が強く依存するようになりました。逆にいうと、データを入手できさえすれば、我々はそれを活用(number crunching、さらには数値以外のデータさえ解析)して、まだ見...