これぞ浅草流の結束-東京浅草 CS経営(その33)

 
  
 

◆なぜ、あの企業の「顧客満足」はすごいのか

4.これぞ浅草流の結束-東京浅草

(2) 代々の浅草つ子は少数派り

 浅草、とくに仲見世通りの入り口には、松下幸之助氏が寄進、奉納したことで有名な雷門、大提灯があります。そして、その両側には仏像が収められており、浅草寺へと一直線に道が続いています。風情のある長屋のような店構えの商店が軒を連ね、これが見事に一幅の絵のようであり、そして、そこに置かれている「日本風」の品々が浅草独特の雰囲気を醸し出しているのです。
 
 設備・施設、商品、人、そして、仕組み・仕掛けなどが渾然一体となり、ここを訪れる人々の身体や心を揺さぶり、刺激をもたらすのです。実は、現在、浅草で働く人々の多くは、代々続いた生粋の浅草生まれ、浅草育ちというわけではないのです。もちろん、代々の浅草っ子もいるのですが、ほとんどは地方出身者です。
 
 そういう意味では、「純粋な浅草風情」を伝承してきたわけではないともいえるのです。代々浅草で生まれ育った生粋の浅草人、江戸もの、汪戸っ子と称される人たちは、浅草の在り方、良き伝統が蔑ろにされることに不安を抱いているのです。仲見世の伝統を理解しない人々(地方出身者)の増加は、彼らの不安に拍車をかけ、ついつい、生粋の浅草人同士で愚痴を言い合い、ぼやき、嘆くことになります。本来の浅草を知らない、わからない、理解していない人々にどう対応すればいいのかと。
 
 もちろん、伝統の中にも変えたほうが良いこともあるでしょう。しかし、現実には、残したいものが消えていき、残したくないものが残ってしまう……。そして、仲見世通りで働く人々の多くは、普段、皆それぞれの立場で商いに励んでおり、「浅草」「仲見世通り」ということを強く意識しているわけではないというのです。
 
 とはいえ、扇を製作し販売している「文扇堂」代表・荒井修氏が指摘するように、何か事が起きれば、皆集まって「どうしたらいいか」について相談する仕組みはできているのです。
 
 しかしこの程度のことなら日本人なら誰でもがすることであり、仲見世通り独自のものとはいえないのです。
 
 では、なぜ、浅草、仲見世通りは、これほどまでに、日本文化や郷愁の念を私たちに感じさせ、何度も訪れたいと思わせるのでしょうか。その鍵は、「伝承のための口伝」「しきたりや設備の在り方」「心をつなぐ一体感」にあるのです。
 
 東京オリンピック以降、浅草は逆に寂れ始めました。そこで商店主などの奥様たちが相談して「おかみさん会」を1967年にスタートしました。いつも何かを訴えていないと忘れ去られるということで、古いものに限らず浅草という雰囲気にミスマッチするような意表をつく活動を組み入れたのです。
 
 たとえばリオのカーニバルを浅草で行なうなどは今でこそ認知度が上がったのですが、まさに古いモノと海外のコトという思い切りミスマッチの企てで話題を呼びました。その一方で、「ふり袖さん」と称する振り袖を着た若い女性のチームを編成し、各お店でお客様サービスのために日本舞踊、茶道、作法を身につけ、各店から呼ばれたら踊りなどを披露するのです。もちろん宴席や各種パーティ、食事会などで、たたみ一畳ほどのスペースがあれば情緒を振りまいてくれます。こうした古き時代の姿を現在の環境に適応させている面もあります。
 
 古いといえば若手歌舞伎俳優などとのコラボレーションも有名で、歌舞伎や落語の襲名披露の、「お練り歩き」と称す...
る文字どおりの浅草での練り歩きをマスコミが紹介しています。
 
 なかでも故中村勘三郎氏は、とくに先の文扇堂の荒井修氏との交流が深く、もちろん浅草との縁が深いために、生前の景気づけの神輿も、亡くなった後の追悼神輿も記憶に新しい。
 
 この古さ、良き伝統文化と下町情緒を紡ぎつつ新しい各種の魅力を生み続け、また導入し続けるという融合を図る糊代となっているのがいわゆる浅草っ子たちなのであり、それが浅草なのです。浅草っ子には、いつもリスクを負うリーダーが存在しますが、それがまた浅草のおもてなしの神髄といえるかもしれません。
 
 次回は、(3) なぜ、人ごみの中でもトイレにたどり着けるのか。から解説を続けます。
 
【出典】 武田哲男 著 なぜ、あの企業の「顧客満足」は、すごいのか PHP研究所発行
筆者のご承諾により、抜粋を連載
 

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