【この連載の前回:【快年童子の豆鉄砲】(その2)仕事とは、人生観の具現の手段へのリンク】
1.はじめに
前弾では、仕事に対する取り組み方の面から発言しましたが、今回は、職業としての面からのアプローチ、俗に言う、“就職”と言う側面です。
2.仕事は、天職 (calling)である
両親が、二人とも教師で、来訪する教え子と両親とのやり取りの中から推察できる教師像に憧れ、高校に入った頃は、教師になる事を当然の様に思っていました。
ところが、高校2年の夏、父の教え子に大阪国際工作見本市に連れて行って貰った時、忘れもしませんが、鉄板が洗面器になる森製作所のダブルアクションクランクプレス機の前に立った瞬間、突如として電撃的に、「自分は、機械屋になって、浅田式工作機械を作るのだ。」と言う決心をし、大学では機械工学を専攻し、多角経営化の一環として、スタートしたばかりの工作機械部門への配属を条件に、日清紡(現日清紡ホールディングス)に入社したのです。
“Calling”に、神の思し召しと言う意味から“天職”“職業”と言う訳があることを知った時、この瞬間がよみがえり、正に至言だと思いました。
3.就活ゼロ
大学の軟式庭球部のキャプテンに選ばれた時、部員の希望で初の学外合宿を先輩のお父さんが役員をしておられた日清紡の名古屋工場でさせてもらったご縁で、入社を勧誘された時、私の夢を理由に断ったところ、上述の工作機械部門の紹介があり、工場見学をしたのですが、工場に一歩入って、通路が土のままなのを見て、これでは話にならないと断る気になったのです。
ところが、学生の私でもよく知るヒューロンの万能フライス盤が2台あるところで足が止まり、ジャンギャバン似の年配作業者の誇らしげな仕事ぶりをしばし見ながら、ちょっと気持ちが動いたのです。
そして、案内された工場の隅にあるベニヤ板作りの屋内小屋に、当時、工作機械関係者垂涎の設備と認識していた、ツワイスの治具ボーラーと万能計測器があるのを見た時、通路を舗装するお金を惜しんでも、建屋はべニア板作りでも、ここと言う所には惜しみなく投資する姿勢に感激し、下手に完成したところより、ここで頑張ってみようと決心したのが、3年生の終わりでしたので、俗に言う就活はゼロでした。
4.就社ではなく就職
父親から、自分の人生は自分で決めていいと言われていましたので、相談することなく決めたのですが、その日の夜、父親に、日清紡に就職することにしたことの報告の電話をしました。
意外なことに父親は日清紡を知っていて、いい会社に決めたな、と言ってくれたのでほっとしたのですが、続けて、初任給を聞かれ絶句しました。実は聞いていなかったので答えられず、父親には呆れられましたが、私の場合、浅田式工作機械を作るという夢の実現の場を与えてくれるところであれば、会社はどこでもよく、給料は関心の外だったのです。
今世間で口にする“就職”の実態は“就社”と言えるのではないかと思っているのですが、そういった意味で、筆者の場合は、文字通りの“就職”だったのではないかと思っています。
5.工作機械は手段
本社見習の初日に、雇用契約書への署名捺印を求められ、そこにある文面が、どこに配属されても文句を言えないものでしたので拒否したところ、入社の決意表明相手の人事課長が現れ、配属先は規則上約束できないが自分を信じろ、と言われて署名捺印するというほど工作機械に拘った“就職”でした。
なのに、先述しましたように、殆どをブレーキ部門で過ごしていることに疑問を持たれると思います。
実は、工作機械部門に配属されて2年後、ブレーキ部門への転籍辞令を受け取った時には、“工作機械”は手段であり、目的は“浅田式”即ち、自己実現だということに気が付いていましたので、手段はブレーキでもよく、すんなり受け入れることができたわけです。
6.仕事(職場)は自己実現の場(フィールド)である
以上から、仕事を職業と言う側面でとらえると、“天職”であると同時に、“自己実現の場”と言うことになります。そして、自己実現には、フィールドが必要で、今なら、起業と言う選択肢が考えられますが、当時の私には、そのような発想はなく、テーマに拘ることなく、与えられたテーマの解決の中に自己実現を求める形になりました。
じゃあ、工作機械は何だったのかと言うことになりますが、明確な夢があったお陰で、少なくとも工作機械に関する勉強が深かったことが、工場見学で、未舗装通路に惑わされることなく、ヒューロンの万能フライス盤やツワイスの治具ボーラー、万能計測器から経営方針を読み取ることができたのではないかと思います。
要するに、「浅田式工作機械」という具体的で明確な目標...